第57回もう一度まなぶ日本近代史~満洲事変前夜、怒りの関東軍~

文:なかむら ひろし

 民政党・濱口雄幸内閣は、財政政策のミスやロンドン海軍軍縮条約を締結したことで多くの敵をつくってしまいました。ところが、選挙で大勝した濱口内閣を誰も倒すことはできません。その結果、濱口首相は凶弾に倒れ、民政党の長老・若槻礼次郎が再び首相になります。しかし、この第2次若槻内閣でとんでもない事件が起こってしまいます。それが満洲事変です。まずは、中国大陸の情勢を見ながら、事変に至るまでの流れを確認していきましょう。

幣原弱腰外交

 日露戦後、中国も日本のような民主国家にしたいと願った孫文は、辛亥革命によって清朝を倒すのですが、強力な軍事力を持っていた袁世凱に追い出されてしまいます。しかし、一応のトップとなった袁世凱も中国を統一することができずにお亡くなりになってしまいます。そして、中国大陸は「我こそが正当な政府である」という軍閥の割拠する動乱時代へと逆戻りしてしまったのです。中国に戻った孫文は、中国を統一しようと動き出すのですが、さすがの逆神で全然上手くいきません。そんな孫文に甘い言葉で囁いたのがソ連でした。資金や武器を援助するので、孫文の中国国民党とソ連の子分である中国共産党とが協力して中国統一を目指すように促すのです。(第一次国共合作)孫文は、これを受け入れ、いよいよ北伐を開始しようとするのですが、志半ばで病死してしまいます。その孫文の後を継いだのが蒋介石です。蒋介石は、広州から進軍し、北伐を開始したのです。
 ソ連の援助を受けた蒋介石は、連戦連勝です。しかし、中国にはイギリスなど列国の権益が多数存在します。蒋介石もその他の軍閥も国際法に則って、居留民の生命や財産を守るなどしてくれません。そこで、イギリスなどは軍隊を派遣することになるのですが、本国から遠く、多数の兵力を割けないため、日本に共同出兵を要請します。ところが、幣原喜重郎外相は「対中国内政不干渉政策」により、これを断ってしまいます。さらに蒋介石の国民革命軍が南京に入ると、その兵によって、日英米などの総領事館や居留民が襲撃される南京事件が起こったのですが、ここでも幣原外相は何もしません。これに日本国内ではバッシングの嵐です。金融恐慌も相まって、枢密院によって第1次若槻内閣は潰されてしまいます。
 南京事件によって、列国から激しく非難された蒋介石は、中国共産党の仕業だとして、粛清を開始し(反共クーデター)、南京に国民党政府をつくりました。こうして、第一次国共合作は崩壊するのですが・・・

田中強硬外交と反日プロパガンダの拡がり

 第1次若槻内閣が倒れると、田中義一内閣が誕生します。田中首相は外相も兼任し、次官の森恪と共に対中国強硬外交を展開していきます。蒋介石の北伐軍が華北に近づくと、居留民保護のため、さっそく山東半島へ出兵します。しかし、ここでは内ゲバで消耗した蒋介石が軍閥に敗れたことで、居留民に被害が及ぶことはなさそうだと、すぐに撤兵しています。その後、東京で田中や森を中心とした対中国政策方針を話し合う東方会議が開かれます。ここでは「満蒙における日本の権益をあくまでも死守する」「やむを得ない場合は実力行使もあり得る」という方針を打ち出します。また、田中首相は、軍閥に敗れて下野し、日本を訪れていた蒋介石と会談をしています。ここでは「我々も国民党が共産勢力を打ち払い、中国を統一することを望んでいる」「中国を統一したあかつきには国民党政府を承認する」「ただし、日本の満洲権益を認めて欲しい」と話し、蒋介石も認めています。ただ、田中首相は同時に、北方の軍閥である張作霖とも懇意にしており、張作霖を援助することで、日本の満洲権益を守っていたという事実が蒋介石に疑念を抱かせていました。
 国民革命軍総司令に復帰した蒋介石は、北伐を再開することになり、田中首相も再度山東半島に出兵します。ところが、第一次山東出兵の際に中国共産党による大規模な反日プロパガンダが行なわれ、中国国内では排日運動が激化していました。済南に入った蒋介石は、こんな状況で日本軍が駐留しているのは日本と協調していくには逆に危険だとして、「我々が責任を持って居留民を守るので、速やかに撤兵してください」と言ってきます。田中首相はこれを受け入れ、済南から撤兵しますが、日本軍が離れた途端、共産党の息のかかった国民党軍が居留民の虐殺を始めてしまったのです。日本軍がすぐさま済南に戻り、国民党軍と激突します。(済南事件)事件自体は、国民党軍が済南から出ていったことで収まりますが、日本政府と蒋介石の仲は一気に険悪なものへとなってしまいました。

北伐の完成()

 態勢を整えた蒋介石は、北京に入ろうとします。いよいよ北伐軍が張作霖とぶつかろうとしていたのです。中国共産党による反日プロパガンダは満洲にまで拡がり、北伐軍に押されている張作霖は日本政府のコントロールが利かなくなっていました。ここで田中首相兼外相と森恪外務次官との意見が割れます。田中首相はあくまで満洲は中華民国のものであるとしながら、張作霖を満洲に閉じ込めて、張作霖には満洲を、蒋介石には満洲以外を統治してもらおうと考えていました。しかし、森外務次官は最早張作霖に利用価値なしとして、満洲を中華民国と切り離して統治すべきだというエクストリーム強硬論を主張したのです。田中首相は英米に対してけんかを売るような真似をしたくなかったので、森外務次官の意見は却下します。そして、蒋介石と張作霖がぶつかり、仮に張作霖が敗れるようなことがあれば、戦線は満洲にまで拡がり、日本の権益を侵す危険性があったため、両者を水際で止めることに成功します。しかし、張作霖が軍隊を引き連れ、満洲に引き上げる時に張作霖爆殺事件が起こったのです。事件は関東軍の仕業と噂され、張作霖の後を継いだ息子の張学良は、日本に怨みを持ち、国民党に恭順して、満洲で次々と排日政策を断行するようになりました。こうして、一応は国民党の北伐は完成することになりました。ただ、実質的には軍閥は残っていましたし、共産党も駆逐できたわけではなく、中国統一には程遠い状態でした。また、田中首相は事件の善後措置を誤り、総辞職してしまいます。

幣原弱腰外交、再び

 田中内閣退陣後、民政党が政権を握ります。幣原喜重郎が外相に返り咲いたのです。これにより、張学良の嫌がらせは激化していきます。幣原外相は完全になめられていたのです。そして、様々な事件が起こります。対ソ戦を見据えて、満洲で兵要地誌の調査を行なっていた中村震太郎大尉が中国兵に殺害される中村大尉事件や朝鮮人農民(当時は日本人)が中国人農民に水路を埋められる嫌がらせを受けたことからケンカになり、日中両国の警察が出動する騒ぎとなった万宝山事件など、幣原外交はやはり大バッシングを受けることになるのです。特に怒りを爆発させたのは現地にいる関東軍でした。そして、第2次若槻内閣の時、関東軍参謀の板垣征四郎、石原莞爾らが中央を無視して満洲事変を起こすことになります。


満洲事変の中心人物で天才参謀と言われた石原莞爾。
天才過ぎて無能な上官を小ばかにしてしまう問題児でもありました。
東条英機と不仲だったことは有名。
アメリカが大嫌いで、著書『世界最終戦争論』でもアメリカと最終戦争を戦うことになると書いています。
そんな彼ですが、実は対米開戦に反対していました。
なぜならば、対米戦は最終戦争であり、先にソ連を討たなければならないからだそうです。

 次回は、満洲事変の内容を見ていきます。

なかむら ひろしのTwitter

ついったウィジェットエリア