第58回もう一度まなぶ日本近代史~満洲事変勃発、関東軍の独走とは?~
井上蔵相の経済政策の失敗、幣原外相の弱腰外交によって、政党内閣に対する不信はどんどん高まっていきました。しかし、選挙で大勝した政党内閣は強く、誰も倒すことができません。首相が凶弾に倒れても、「憲政の常道」がある限り、テロによる政変も許されないのです。そこで立ち上がったのが関東軍参謀・石原莞爾でした。
軍部って誰のこと言ってるの?
石原が起こすことになる満洲事変は、よく軍部の独走なんて言われますが、それでは説明不足です。そもそも「軍部って誰よ?」っていう話です。軍部というのは、陸軍と海軍を合わせた総称ぐらいの意味しか持ちません。
まず、陸軍と海軍というのは軍事予算を取り合う敵対関係にあったと言っても過言ではありません。陸軍が大陸で何かあると予算を持っていかれるため、海軍は決していい顔をしないのですが、そこで文句を言うと海軍で何かあった時に陸軍から同じことをされるので、黙っているというのが基本です。
さらに陸軍も一枚岩ではありません。大正以降、政党内閣が力を持つようになると、軍人も政党に媚を売った方が出世できるようになります。陸軍出身でありながら政友会総裁から首相にまで上り詰めた田中義一がその例です。田中が政友会に媚を売って出世したのに対し、同じように民政党に媚を売って出世したのが宇垣一成です。宇垣は、陸軍でリストラを断行し、兵器の近代化を進める所謂「宇垣軍縮」を行ない、陸軍の中では嫌われていたのですが、彼に従順な人ほど出世していくので、当時の陸軍中央は若槻内閣に逆らうような真似はしません。つまり、満洲事変というのは、軍部の独走でもなければ、陸軍の独走でもなく、現地で張学良の狼藉に耐えられなくなった出先機関の独走というのが正確です。
満洲事変勃発
1931年(昭和6年)、関東軍は奉天郊外にある柳条湖付近で日本の国策企業である南満洲鉄道の線路を爆破し、これを張学良の仕業だとして軍事行動に出ます。この柳条湖事件をきっかけに起こった満洲での武力衝突全体を合わせて満洲事変と呼びます。
関東軍というのは、あくまで満洲の治安維持のために置かれた機関なので、多くの兵力を擁しているわけではありません。張学良軍がいくら所詮は馬賊だと言っても関東軍の何十倍とも言われる兵力を持っており、厳しい戦いになることは必至です。しかし、石原の作戦は見事で、その張学良を相手に関東軍は全戦全勝、事前に作戦を伝えていた朝鮮軍司令官の林銑十郎が援軍を遣してくれたこともあり、翌年にはほぼ満洲全土を制圧してしまいます。
石原が何故こんな暴挙に出たかというと、理由はいろいろあります。まず、国際的な軍縮の流れなど無視して軍拡を進めるソ連を警戒し、満洲を押さえる必要があったことです。次に張学良の度重なる狼藉に対して、あくまで話し合いで解決しようとする外務省への反発です。中華民国は、いくら話し合おうとしても、話し合いのテーブルにさえ着いてくれませんから、実力行使しかありません。そして、政党政治の腐敗を打破したいという思いもありました。対中政策でも経済政策でもミスを繰り返しておきながら、誰も倒せない強すぎる政党内閣を動かすには、「現地で事を起こすしかない!そうすれば、国内でもこれに呼応してくれるはずだ!」と考えたのです。
満洲事変は関東軍の自作自演から始まったことが批判されがちですが、関東軍は張学良から攻撃を受けないと動けません。あくまでも「自衛」のためという大義名分がなければならないのです。政府から「やめろ!」と言われたら引き下がるしかないのです。これが好き放題やれる張学良との違いです。それでは、何故政府は関東軍を止められなかったのでしょうか?
ちなみに関東軍は自作自演という脱法行為だったわけですが、朝鮮から勝手に援軍を送った林銑十郎は完全に違法です。その林が後に首相になる・・・なんて話があるんですよ。これが。
若槻内閣崩壊
国内では、若槻内閣が関東軍に対し、「これ以上戦線を拡げるんじゃない!」と事変不拡大方針を声明しました。しかし、関東軍は「仰ることは分かるのですが、張学良が攻撃を止めないので」と言って、戦線を拡大していきます。政府がここで「今すぐ退け!」と言ったら、関東軍は引き下がるしかなかったのですが、強くは言えなかったのです。それは国民世論が一斉に関東軍を支持したからです。国民も張学良にやりたい放題やられていることにフラストレーションが溜まっていたのです。
一方、蒋介石は「日本に侵略された」と国際連盟に訴えていました。国際連盟に加盟している小国は「日本の行為が認められたら、自分の国が大国に侵略される口実にされるのでは?」と考え、蒋介石の言い分に賛同したのですが、イギリスなどの大国は「軍事行動を起こすんなら先に言っといてよ」と怒りながらも、中国の惨状を知っているので、概ね日本に好意的でした。その結果、国際連盟は「事変が収まったら満洲問題をきっちり調査させてもらうので、張学良を懲らしめることに関しては許しましょう」という結論を下しました。また、アメリカは日頃から日本のことを良く思っていないため、蒋介石の言い分に乗っかって日本を非難しました。まぁアメリカは国際連盟に加盟していないので関係ありませんが。
再び国内に話を戻すと、国民世論と国際協調の板挟みで頭を悩ませていた若槻首相に安達謙蔵内相が「協力内閣案」を提起します。政友会と連立し、挙国一致内閣で満洲事変に対応すれば、関東軍にも強くものが言えると考えた若槻首相はこれに賛同します。しかし、安達内相は協力内閣が成立した暁には金輸出を再禁止する考えだったことから、井上蔵相が協力内閣案に反対します。さらに幣原外相にも「森恪のようなエクストリーム強硬外交論者のいる政友会とは一緒になれない!」と反対されます。結局、若槻首相は協力内閣を諦めようとするのですが、安達内相が「賛同してくれてたやないですか!」と怒って自宅に引きこもってしまいます。こうなってしまうと安達には内相を辞任してもらうしかないという話になるのですが、安達はこれも拒否します。当時の日本は、首相が国務大臣を更迭できる権限がなかったため、若槻内閣は閣内不一致で倒れてしまったのです。
元老西園寺公望は、次の首相を誰にするのか悩みました。若槻内閣が倒れたのは、対中政策や経済政策のミスと判断し、政友会に政権を譲るのか、安達内相や政友会の謀略による倒閣と判断し、若槻に再度首相をやらせるのか。側近に何度も相談し、結局は政友会総裁犬養毅を首相にするのですが、ここで憲政の常道に揺らぎが生じたのです。
かつて「憲政の神様」と呼ばれた犬養毅が遂に首相の座に。
少数政党を渡り歩いた苦労人は、もう80手前のおじいちゃん。
しかも、それはもう大変な時期に首相となってしまいました。
組閣直後からつまづきまくりです。
彼の言葉の意味は、次回以降にお送りすることにしましょう。
次回は、ブーメランから始まり、ラストエンペラーも登場して大騒ぎです。