第2回もう一度まなぶ日本近代史~アヘン戦争と日本~

文:なかむら ひろし

 欧州列強の魔の手がアジアに迫ってきたことは前回書きましたが、その危機が日本に最も近づいたのがアヘン戦争です。アヘン戦争を知るとイギリスの鬼畜っぷりと清朝のクズっぷりがご理解いただけると思います。

 最初にアヘン戦争に至るまでの経緯を書いていきます。

地獄の三角貿易

 欧州では紅茶ブームが起こり、茶の需要が高まっていました。そこでイギリスは、清の茶に目をつけ、大量の茶を輸入していたのです。それに対して清は「お前のところから買うものなんてねぇよ」(輸入したところで一部の金持ちにしか売れない)ということで、イギリスはかなりの貿易赤字を抱えていました。お茶ごときでと思うかもしれませんが、多いときには1万トンも輸入していたのです。量が破格のスケールです。
 当時、支払いは銀で行われており、イギリスの銀が大量に清に流出しました。困ったイギリスは、ある作戦に打って出ることになるのです。
 ちなみに、現在だと貿易赤字は必ずしも悪いとはいえないのですが、当時は貨幣や為替のシステムが完成されていなかったため、貿易赤字=悪という価値観が一般的でした。(現在もそういう人はいますが)

 イギリスは植民地であるインドに大量生産した工業製品(綿織物)を輸出し、インドにはアヘンを栽培させ清に密輸させます。そして、清からは従来どおり茶を輸入するという方法で銀の流出を止めました。イギリスは、国ごと反社会勢力のようなことを行ったのです。

 清は以前からアヘン中毒者に悩まされていたため、アヘンを禁止していたのですが、清国内にもアヘンの密輸で儲けている輩がいるわけです。清は、アヘン中毒者の増大と銀の流出という二重苦を味わうのです。

アヘン取締の強化

 清国内ではアヘンを徹底的に取り締まるべきだという意見が出て、道光帝は林則徐という人物をアヘン取締に当てさせました。林則徐は、アヘン商人の賄賂などには目もくれず、アヘン取締を強行します。
 「アヘンを一切持ち込まない」という誓約書にサインした者としか貿易は行わない、「アヘンを持ち込んだら死刑」と通告します。さらに、イギリス商人のアヘンを没収し処分してしまいました。
 イギリスは、武力を背景にアヘン取締を解除するように脅しをかけるというよりも、いきなり「戦争だ、コラァ」と艦隊を派遣するのです。

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イラストはふざけていますが、中華王朝で稀に現れる超真面目人間なのです。

 こうして、イギリスの「まさにやくざの手法」でアヘン戦争は始まったのです。続けてアヘン戦争とその後について書いていきます。

アヘン戦争勃発

 平和ボケした清国軍に、世界最強の海賊いや海軍国であるイギリスに敵うはずもなく、あっという間にボコボコにされてしまいます。さらにイギリス艦隊にビビった道光帝は、林則徐を解任するから許してくださいという始末です。賄賂に厳しい林則徐のせいで私腹が肥やせないからという理由で、林則徐解任を進めた官僚がいたという話もあり、清朝は完全に腐っていたわけであります。
 あっという間にボコボコにされたわりに、アヘン戦争は1840年から1842年と2年ももっているのは、一旦降伏して講和に持ち込んでいるのに、イギリス軍が撤退するや否や国内の反発から「なかったことでお願いします」と言い出して、再度ボコボコにされたからです。中華王朝のパターンとして、和平が結ばれた後が本番ということは日常茶飯事です。

半植民地に成り下がる清朝

 終戦後、清はイギリスと南京条約を結びます。内容は以下の通りです。

・上海など5港を自由貿易港へ
・賠償金の支払い
・香港の割譲

 さらに翌年には、以下の追加条約を結びます。

・治外法権
・関税自主権の放棄
・片務的最恵国待遇

 完全に半植民地状態です。しかも、あれだけ揉めたアヘンの問題については何も手が付けられていないという惨状です。
 後年、まだまだ絞り足りないイギリスがフランスと一緒に清をリンチにするというアロー戦争まで起こっています。自業自得な部分もあるにせよ、踏んだり蹴ったりな清朝でございます。

 この戦争によって危機感を持ったのが清・・・ではなく日本でした。清朝に至っては、ほとんど省みられていません。清朝は北方の満洲人によって建国された王朝なので、南方の漢民族がやられたことなどは他人事ぐらいにしか考えていません。
 日本の知識人たちは清国やオランダからアヘン戦争の情報を得て、この国難に立ち向かっていくことになるのです。

 次回は、日本に話を戻したいと思います。ちなみに、まだ教科書でいうと1ページも終わってません。

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