第59回もう一度まなぶ日本近代史~関東軍、上海事変の隙に満洲国建国~
関東軍によって引き起こされた満洲事変によって第2次若槻内閣が退陣し、政友会総裁の犬養毅が大命降下を受けました。犬養内閣の命題は、疲弊した日本経済の回復と満洲事変の解決です。そこで、蔵相には不況乗り切りのプロである高橋是清を起用し、外相には森恪のような強硬派を抑えて、娘婿である芳沢謙吉を起用し(欧州にいた芳沢が帰国するまでは犬養が外相を兼任)、クリアしようとしますが・・・
達磨蔵相、再び
第一次世界大戦による特需で大儲けしたアメリカも欧州列国が復興してくると戦後不況に陥りました。そして、輸入超過となったアメリカは、自国の産業を守るため、輸入品にバカ高い関税をかける保護貿易を行なったのです。欧州列国も報復として保護貿易を行ない、世界のお金の流れが悪くなり、世界恐慌へと発展してしまいました。そんな中、濱口内閣・若槻内閣で蔵相を務めた井上準之助は金解禁を断行し、日本経済に大きなダメージを与えてしまいます。特に農村への影響は甚大で、多くの餓死者を出してしまったという話は以前しました。
犬養内閣が成立するや否や高橋是清蔵相は、金輸出を再禁止し、管理通貨制度へと移行します。これにより、円安が急激に進み、輸出が増加し、株価が上昇していったのです。その結果、後に綿織物の輸出額がイギリスを抜いて世界1位となります。諸外国は、これを円安を利用した不当な安売り(ソーシャル・ダンピング)として批判しましたが、自国と植民地間以外の関税を上げるブロック経済圏を押し進めていく人たちが何を言ってるんだという話です。
また、高橋蔵相は緊縮財政から一転して積極財政を押し進めていきます。多額の赤字公債を発行し、軍事や農村救済に力を注ぎました。ちなみに赤字公債は日本銀行に押し付けています。経済学的なお話になりますが、政府と日銀は親子間でのお金の貸し借りみたいな関係で、政府は日銀に対する負債を踏み倒しても問題ありません。副作用としてインフレが進みますが、デフレに苦しんでいるのですから問題ないのです。インフレが行き過ぎそうになったら、日銀に返済して引き締めればいいという理屈です。こうした高橋財政によって、日本は世界最速で世界恐慌から脱出することになります。
満洲で起こった火事が上海に飛び火
経済政策は上手くいったので、次は満洲事変の解決です。犬養首相は、かつて孫文や蒋介石を支援していたこともあり、中華民国に独自のパイプを持っていました。そこで、あくまでも話し合いで解決しようと、萱野長知に命じて中華民国と秘密裏に交渉を行ないました。この交渉は上手くいきかけたのですが、最終的に森恪の知るところとなり、森恪らの妨害を受けて頓挫してしまいました。
次に犬養首相を悩ませることになったのが、桜田門事件です。朝鮮の独立を目指す朝鮮人テロリストによる昭和天皇暗殺未遂事件で、昭和天皇はご無事だったのですが、当然責任を追及されることになります。特に犬養といえば、虎ノ門事件で山本権兵衛内閣を先頭に立って攻撃していたこともあり、完全にブーメランです。これはもう辞めるしかありません。犬養首相は辞表を提出しますが、西園寺公望は「今首相をできるのは、お前しかいないんや!陛下もそれを望んでおられる!」と続投を望んだため、これを取り下げます。ここまでは良かったのですが、これが遠因となって第一次上海事変が起こってしまうのです。
満洲事変勃発以降、中華民国では排日運動が激化します。そうした流れから中華民国の機関紙である「民国日報」が桜田門事件に関して、「不幸にも未遂に終わった」などと書いてしまったのです。そんな中で、中国人による日本人僧侶殺害事件なども起こり、日本人居留民たちは怒りを爆発させます。満洲が陸軍の縄張りなら、上海は海軍の縄張りでした。居留民たちは海軍に泣きつき、海軍が軍事行動を起こしたのです。これが第一次上海事変です。
国民党軍の兵力は海軍陸戦隊の10倍以上もあったのですが、「陸軍があの兵力差で大勝したんだから国民党軍なんて雑魚だろ」と完全になめていました。ところが、所詮は馬賊の張学良軍と精鋭である国民党軍とでは力が全然違います。海軍はプライドを捨てて、仲の悪い陸軍に助けを求め、共同で戦って国民党軍を追い出すことに成功します。日本の国民世論は、「勢いに乗って、徹底的に中華民国を叩け!」と煽っていたのですが、上海は満洲と違って、列国の権益がたくさんあります。そんなことをしたら列国から「危ないからさっさと停戦しろ!」と激しく批判を浴びてしまいます。しかし、白川義則陸軍大将や重光葵駐華大使らの尽力ですばやく停戦協定を結び、上海事変の収束に成功したのです。
その頃、国内では
満洲事変が解決する前に第一次上海事変が勃発するという混乱の中、国内ではテロ事件が起こります。日蓮宗の僧侶である井上日召をトップとする血盟団によって、井上準之助前蔵相や三井合名理事長の団琢磨が暗殺されたのです。血盟団事件です。血盟団がこのような暴挙に出たのには理由があります。度重なる不況と井上財政によって、多数の餓死者を出しておきながら政治家や財閥はぬくぬくとした生活を送っていることが許せなかったのです。
元々潤沢な選挙資金を用意できる政治家は少なく、ほとんどは財閥から支援を受けていました。政友会は三井、民政党は三菱から援助を受けていたのですが、財閥もただで資金を提供するわけではありません。当然、見返りを求めるわけです。その結果、財閥有利なシステムが出来上がるのは、現在でも同じです。さらに三井は高橋財政によって、為替相場が下落することを見越し、大量のドルを購入したことで、莫大な利益を上げたことも血盟団から怨みを買う一因になりました。そして、諸悪の根源である財閥やその財閥と癒着している政治家を殺害するテロに及べば、軍部がこれに呼応して、新しい社会を作り出してくれると確信したのです。この後、血盟団事件をきっかけとして、軍部を巻き込んだテロが横行することになっていきます。
その頃、満洲では
上海事変によって、列国の目が満洲から逸れたところで、関東軍が次なる行動を開始しました。(前の日本人僧侶殺害事件は、関東軍参謀の板垣征四郎による陰謀だったという話もありますが、これに関しては真実かどうかはよくわかりません)関東軍は当初、満洲を直接支配下に置こうと考えていましたが、国際情勢を考えるとさすがに現実的ではないということで、天津にいた愛新覚羅溥儀を満洲に連れてきて、彼を執政とする「満洲国」を建国したのです。
中国大陸には、漢人・満洲人・モンゴル人・チベット人など様々な民族が存在します。そして、その中で一番強い民族が国を作って統治するというのがお決まりです。例えば、「明」は漢人、「元」はモンゴル人、辛亥革命によって消滅した「清」は、満洲人によって作られた国でした。溥儀というのは、清朝最後の皇帝である宣統帝と同一人物です。彼は、清朝が倒れた後も国民党政府から身分を保障されていました。清朝が北京に建てた紫禁城に幽閉されていたのですが、国民党政府から資金援助を受けて、著しく生活レベルが低下するようなことはなく、ぬくぬくと生活はできていたわけです。ところが、それも長くは続きません。政権が安定するまでは、反乱が起こらないように泳がせていたのですが、北伐が進む中で溥儀を紫禁城から追い出し、資金援助も大幅に削るようになります。そんな中、国民党軍が清朝の皇帝が埋葬されているお墓を暴いて、金品を奪い去るという事件が起きたのです。溥儀は激怒し、満洲人の祖国に帰って、清朝を復活したいと願うようになるのです。
これは、関東軍にとって渡りに船です。清朝最後の皇帝である溥儀を擁立できれば、満洲国建国に正当性を持たせることができるからです。満洲国建国にあたり、日本がロシアに奪われていた満洲を日露戦の勝利によって清国に返還したり、紫禁城を追い出された溥儀を公使館で匿っていたこともあって、関東大震災の時には溥儀がいち早く義捐金を送ってくれるなど、日本と溥儀の関係が良好だったことも大きいでしょう。関東軍はこれを利用しない手はないと考えたのです。ちなみに、溥儀は「清朝の復活」を望み、「皇帝」という名前に拘りましたが、「それじゃあ、古い独裁国家みたいに受け取られて印象が良くないですよ」と最初は関東軍に止められました。後に希望通り、国名を「満洲帝国」と改め、溥儀は「皇帝」になったのですが、「立憲君主制」をとったため、親政を行なうことはありませんでした。
関東軍は、満洲を中華民国から切り離し、影響力を行使しながら権益を保持すると同時に、満洲国を緩衝国として利用しようとしたわけですが、これがどうも「傀儡政権の樹立とは下衆の極みだ!」と言われがちです。確かに褒められたことではありませんが、このようなことは結構行なわれていて、アメリカやロシアなんかは現在でもやっているんですよね。日本だけが悪いというわけではないのです。
「五族協和」「王道楽土」をスローガンに建国された満洲国。
アジア主義に基づいて、中国大陸における理想郷を目指していました。
所詮は夢物語のように感じますが、意外と上手くいっちゃいます。
大日本帝国って内地よりも外にお金をガンガン使っちゃうんですよね。
その執政となったのがラストエンペラーこと溥儀。
戦後、「関東軍に脅されたんだ!」と言ってますが、ソ連に捕まっていて、命の危険があったわけですから、大きな心で許してあげましょう。
満洲国建国直後、国際連盟からリットン調査団が派遣されます。次回、満洲国建国を巡って、国内外で議論が紛糾します。