第60回もう一度まなぶ日本近代史~五・一五事件、政党内閣の終焉~
犬養毅首相は、満洲事変を国民党政府との話し合いによって解決しようと模索していましたが、満洲での火事が上海に飛び火して第一次上海事変が勃発します。上海事変は、なんとか小火のうちに消し止めますが、その隙を見計らって、関東軍は独断で満洲を中華民国から切り離し、満洲国を建国してしまったのです。
憲政の神様の最期
上海事変の最中、国内では総選挙が行なわれました。解散中に事変が起こってしまったため、こんなタイミングになってしまったわけですが、民政党の経済失政が酷すぎたこともあり、政友会が歴史的大勝を収めます。その結果、犬養首相は民意を味方につけたとして、独走する陸軍を押さえようとします。まず、満洲事変を穏便に解決したいので、陸軍の求める満州国承認の閣議決定を断固拒否すると、さらに危険と思われる陸軍青年将校を免官するために宮中工作を開始します。
こんなことをすると、陸軍が黙っていないと思われそうですが、動いたのは海軍の方でした。犬養毅は、濱口内閣の時に結ばれたロンドン海軍軍縮条約を「統帥権干犯」だとして批判し、これが陸軍の独走を招いたわけですが、元々は軍縮に賛成しています。これが海軍には「政権を奪取するために意見をコロコロ変えてるだけじゃねぇか!」という風に映ったのです。海軍青年将校は、大川周明から武器や資金の援助を受け、血盟団の残党などとも結託し、クーデターを計画します。さらに陸軍にも協力を求めますが、陸軍青年将校を束ねていた元陸軍軍人の思想家・西田税は「現在の国際情勢を考えると、事を起こすのは時期尚早だ」として、陸軍のほとんどは参加しませんでした。そして、1932年(昭和7年)5月15日に計画が実行されたのです。これが五・一五事件です。
海軍青年将校たちは、首相官邸や変電所を襲撃し、首都を混乱に陥れた隙に、軍事政権を樹立しようと考えていました。海軍中尉の三上卓らは、首相官邸を襲撃し、犬養首相を射殺します。(この際、犬養首相が逃げずに「話せば分かる」と言ったのは、有名なエピソードですが、今となっては「頼むから逃げてくれ!」という感じです)しかし、海軍青年将校たちの計画で成功したのは首相暗殺だけでした。陸軍の参加を拒否した西田税が裏切り者として銃弾を受け、瀕死の重傷を負いますが、それ以外はさほど被害は大きくなく、クーデターは失敗に終わってしまいます。
憲政の常道の終焉
元老西園寺公望は、後継首相の選定に頭を痛めます。本来ならば、暗殺による倒閣なので、憲政の常道に則り、政友会後継総裁の鈴木喜三郎を首相にするべきところです。しかし、鈴木という男は、田中義一内閣時に選挙干渉を行い、議会政治を否定するような発言したり、政友会の中でも右派として知られ、強硬外交を行なう可能性が高いなど、彼を首相にするのはあまりにも危険だったのです。また、政党政治に対する不満も最高潮に達しており、再びテロが起こってもおかしくありません。ただ、軍部に任せるのはそれ以上に危険です。悩みに悩んだ西園寺は、苦渋の決断を下します。政党内閣は諦めるが、陸軍と森恪ら政友会右派が推す平沼騏一郎枢密院副議長は退け、穏健派として知られる元海軍大将の斎藤実を首相に奏選するという妥協人事を行なったのです。
この苦渋の決断は、あくまでその場しのぎに過ぎず、いずれは政党内閣に戻し、憲政の常道を復活するつもりでした。しかし、憲政の常道が復活することは二度とありませんでした。
斎藤スローモー()内閣
西園寺は、斎藤実を派手なパフォーマンスを行なうことができない地味な人物だと評価していました。斎藤首相には、いずれ政党内閣に戻すつもりなので、政党政治への不信が落ち着くまで「何もしない」ことを期待したのです。斎藤首相は、政党・軍部・貴族院など各派閥から閣僚を選んだため、「挙国一致内閣」または「中間内閣」と呼ばれるのですが、もうひとつの名は「スローモー内閣」でした。
蔵相を留任した高橋是清は、前回記述したように世界恐慌から一番乗りで脱出します。しかし、カナダで開催されたオタワ会議によって、流れが変わってきます。イギリスが世界恐慌対策として、自国と植民地の間の関税を極端に安くする代わり、それ以外の国には極端に高い関税をかけると言い出したのです。ブロック経済圏というヤツです。世界中に植民地を持つイギリスにこんなことをされたらたまりません。さらにフランスや既に保護貿易を行なっていたアメリカもこれに乗っかったため、植民地や資源を持たない日本やドイツは世界市場から閉め出されてしまったのです。
列国がブロック経済化を進めるとなると、日本にとって満洲はさらに重要になってきます。その結果、内田康哉外相が満州国承認を決意するのです。内田外相は、議会で「国を焦土にしてでも満洲権益を守り切る!」という所謂「焦土演説」を行ないます。これには、エクストリーム強硬外交で知られる森恪ですら「国を焦土にしないようにするのが外交やろ・・・」とドン引きです。そして、とんとん拍子に話は進み、日満議定書が交わされると、遂に満州国承認が閣議決定されてしまいます。斎藤首相は、無茶なことをする内田外相に対して「何もしなかった」のです。
暴走するのは内閣だけはなかった
犬養内閣の時、国際連盟は満洲の実情を調査するため、イギリスのリットン卿を団長とする所謂「リットン調査団」を派遣しました。彼らがその調査結果をまとめて、「リットン報告書」を発表します。その内容は「関東軍のやったことは自衛の範囲を超えている」「満州国建国は関東軍に引き摺られたもので民族自決とは言えない」など、満洲国を国家承認せず、満洲はあくまでも中華民国に主権があるというものでした。しかし、その一方で「張学良は日本に殴られて当然のことをしてきた」「満洲の事変以前への復帰は認めない」など、満洲における日本の権益に関しては擁護してくれています。すべてが認められたわけではありませんが、それでも日本に有利な解決案だったわけです。
ところが、これを朝日新聞などのマスコミが「国際連盟は反日だ!」「連盟なんて脱退してしまえ!」と国民世論を煽ります。これによって、世論は国際連盟やリットンに対して激昂し、斎藤内閣は世論に引き摺られて国際連盟を敵視するようになっていきました。そして、満州国が内閣によって、正式に承認されるに至ったのです。
国際連盟は、リットン報告書を元に満洲問題を審議するため、ジュネーブで総会を開くことになりました。日本は、主席全権として松岡洋右代議士を派遣します。松岡は、英語が堪能で「英語で議論ができる人物」として選ばれました。満州国を正式承認し、引くに引けなくなった政府は、日本の要求が通らなければ、国際連盟脱退やむなしと強硬な訓令を松岡に送ります。しかし、松岡は日本の国際連盟脱退は国益に反するとして、出来る限りの努力をするのですが・・・
「何もしない」ことを期待された悲しすぎる斎藤実首相。
帝国憲法下では、首相の権限が弱すぎたということもありますが、さすがに閣僚にナメられすぎでは?
内田外相の暴走に対して「何もしなかった」のはマズすぎました。
結果として、「スローモー内閣」どころか「暴走内閣」に。
次回、ジュネーブ総会に首席全権として派遣された松岡洋右が頑張りますが、またしても内田外相がいらんことをしてくれちゃいます。