第61回もう一度まなぶ日本近代史~どうしてこうなった、国際連盟脱退~

文:なかむら ひろし

 五・一五事件によって犬養毅首相が暗殺され、斎藤実内閣が成立します。これは「憲政の常道」を放棄した「中間内閣」でした。蔵相は高橋是清が留任し、恐慌から脱することに成功するのですが、外相の内田康哉が強硬論を展開したことで、ついに満洲国承認を閣議決定してしまいます。ところが、リットン報告書は満洲国を否認する内容でした。このリットン報告書を審議する国際連盟総会がジュネーブで開催されることになり、日本の主席全権として松岡洋右が派遣されることになりました。

外務省に後ろから刺される松岡洋右

 1932年(昭和7年)、ジュネーブで国際連盟総会が開催されましたが、日本にとっては完全に逆風といえる雰囲気でした。特に欧州の小国は、ロシアやドイツが復活してきていることから、「これを認めると自国が侵略される口実にされるのではないか」と強固に日本を攻撃したのです。日本全権主席の松岡洋右は、満洲は「歴史的に見ても中華帝国とは別の国であること」や「多くの犠牲を払って日露戦に勝利し、やっと手に入れた生命線」であることなどを主張すると伴に、欧州の小国には国際連盟脱退をほのめかす、ある種の瀬戸際外交を行ないます。国際連盟というのは「欧州の紛争を解決すること」が仕事だと言っても過言ではありません。常任理事国の中で、欧州の紛争に利害関係の生じない大国は日本しかないので、日本が脱退してしまうときちんと機能しないのです。国際連盟に自国の安全を保障してもらっているような欧州の小国は、日本に脱退されるとかなり困ることになります。
 それでも、日本の不利な状況は変わらず、松岡は「日本は十字架に磔にされようとしているが、かつて磔にされたキリストが後年理解されたように、日本の正当性もすぐに理解されるはずだ」という「十字架上の日本」と呼ばれる1時間20分の演説を原稿も持たずに英語で行なうことで、状況の打破を目指しました。この演説は「日本人にこれほどの演説を英語で行なうことができる人がいたのか!」と各国から賞賛されるのですが、事態を好転させるには至りませんでした。
 ところが、完全に手詰まりとなった松岡に助け舟を出してくれた国がありました。それがイギリスです。世界中に植民地を持っているイギリスは、大きな声で日本を批判することができませんし、中国大陸の事情にも精通していることから、日本に同情的でした。イギリスのサイモン外相が「日中二カ国で話し合う場を設けるので、それで解決してくれ」と妥協案を出してくれたのです。松岡は、内田康哉外相に「これしかない!」と電報を送りますが、満洲国承認に沸く世論に煽られた内田外相はこれを撥ね付けてしまうのです。

熱河がなければ満州じゃない

 斎藤実内閣は、イギリスの提案を蹴っただけでなく、さらに事態を悪化させる閣議決定を行ないます。松岡がジュネーブで頑張っている中、関東軍が新たな軍事行動を起こそうとしていたのですが、それを許可してしまったのです。
 満洲国は、奉天・吉林・黒竜江という3省を有していたのですが、溥儀をはじめ満人たちが「元々、熱河省も満人の土地だから、ここも奪い返して欲しい」と関東軍に泣きつきました。人のいい関東軍は、熱河省を奪還するために軍事行動を起こしたいと、斎藤内閣に許可を求めます。「こんな状況の中で熱河省に攻め込むのは、国際連盟にケンカを売るようなものだ」と反対する者もいましたが、内田外相は「熱河省は満洲国内なんだから問題ない」と「万里の長城の中まで追撃しないこと」を条件に許可してしまうのです。これには松岡もぶち切れて、怒りの電報を送っています。
 ケンカを売られた国際連盟は、日本に対して勧告案の作成を開始します。これに内田外相は驚愕しました。勧告が出された後、挑発的な行動に出た場合、経済制裁が行なわれる可能性が出てくるからです。そして、タイミングが悪いことに関東軍による「熱河作戦」の実行と国際連盟による対日勧告が重なってしまったのです。関東軍は速やかに熱河を占領し、軍事的には大勝するのですが、その代償は「日本の国際的孤立」でした。斎藤内閣は「連盟を脱退した国にわざわざ経済制裁をしてこないだろう」と、国際連盟脱退を閣議決定するのです。そして、松岡の下に「華々しく脱退しろ」という電報が送られます。

国際連盟脱退とその後

 1933年(昭和8年)2月、国際連盟総会で対日勧告案が採決されることになりました。ここで松岡が最後の演説を行ないましたが、結果は賛成が42カ国、反対は日本の1カ国(タイが棄権)で可決されました。勧告内容は、リットン報告書よりも厳しく、「満洲国は承認しない」のはもちろん、「張学良の排日活動は正当防衛」とされたのです。松岡はこの勧告案を拒絶し、即座に会場から出て行きました。翌月、日本は国際連盟を脱退することを通告することになります。(正式に脱退したのは1935年)
 失意の中、帰国した松岡を出迎えたのは「松岡、よくやった!」と、歓喜に沸く国民でした。この時、松岡は「頭がおかしくなったんじゃないか?」と思ったそうです。その後、国際連盟と話をつけることができず、連盟脱退という大失態を犯したことを謝罪する声明を発表するのですが、これが新聞で報じられることはありませんでした。
 日本が国際連盟を脱退したことで、中国国民党は国際世論を味方につけることに成功します。しかし、国際連盟による対日経済制裁はなかったことになるなど、国際連盟から直接的な援護を受けることはなく、経済的にも軍事的にも勝る日本とこれ以上、戦闘を続けることは得策ではないとして、日本と塘沽停戦協定を結びます。これによって、満洲事変は一応の終結を迎えることになります。この後、しばらく小競り合いはあるものの、大きな武力衝突は起こらず、日中間の紛争はひとまずは落ち着きを見せます。ただ、満洲国に関しては解決しないまま棚上げされ、実質的には日本が満洲を押さえたことになります。
 国際的には孤立してしまった日本でしたが、満洲事変が終結し、満洲への影響力を強めたことで、外交上の危機がひとつ消え去ります。その結果、日本政治は、国内問題へとシフトチェンジしていきます。


ヤバい人物として有名な松岡洋右。
国連脱退に反対していたことや第一次上海事変を上手くまとめた立役者のひとりであることはなかったことにされがちです。
この後、代議士を辞めるのですが、満鉄副総裁を経て、外相として政界に返り咲きます。
外相時代、対米戦に反対していたのですが、その方法がアクロバティックすぎて上手くいかなかったのが今日の最悪な評価に繋がっています。

 外交問題が一応は落ち着いたのですが、今度は国内で派閥抗争が激化していきます。国際連盟を脱退した大日本帝国は、失策を重ねて滅亡の道を歩んでいくことになります。

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