第62回もう一度まなぶ日本近代史~帝人事件、国内派閥闘争の本格化~
国際連盟総会は、全権松岡洋右の奮闘も空しく、日本の脱退という形で幕を下ろします。これによって、国際的に孤立することになってしまった日本でしたが、中国国民党と停戦協定を結び、満洲事変は収束し、事実上満洲国は日本が押さえるということになりました。最悪な形であれ、一応は目の前の対外危機が片付くと、今度は国内の派閥抗争が激化していくことになります。
まったく信用されない大日本帝国
1933年(昭和8年)9月、駐ソ大使だった広田弘毅が斎藤実内閣の外相に就任します。満洲事変以降、外務省内は陸軍に協力していこうとする対外強硬派とそれに反対する派閥に分かれ、対立していました。この派閥抗争に疲れ切った内田康哉外相は、体調不良を理由に辞任したのです。さっさと辞めてくれればよかったのですが、メチャクチャやるだけやって、日本を国際的孤立に追い込んだ末、投げ出してくれちゃったわけです。
広田外相は、各国駐日大使に外相就任の挨拶回りをした際、日米両国の関係改善を進める協調外交を行なう旨を伝え、米国駐日大使ジョセフ・グルーから評価されました。さらに高橋是清蔵相と協力し、軍事予算を削減して軍部を抑えようとするなど、「協和外交」と呼ばれる協調外交を進めていくことになります。
ところが、1934年(昭和9年)4月、外務省情報部長である天羽英二の会見が列国を刺激してしまいます。当時、ドイツは中国国民党、ソ連は中国共産党を支援しており、武器や資金だけでなく、軍事顧問団も派遣していました。それに対して、天羽は「中国大陸に対する列国の干渉は容認できない」と述べました。列国は、この声明を「東亜モンロー主義」つまり「日本が中国大陸を独り占めしようとしている!」と解釈し、日本を大バッシングしたのです。会見を行なった天羽はもちろん、広田外相も批判される意味がまったく分かりませんでした。事実、日中が提携して、中国大陸の平和を維持しようとしている中で、列国の利害がぶつかり合うのは好ましくないという、特に問題のない声明だったのです。この天羽声明事件は、広田外相の釈明で収束はしたのですが、当時の日本がそれほど信用されていなかったことを物語っています。
アグレッシブお宮さま
ワシントン条約、ロンドン条約が締結されてから、海軍内でも「条約締結は仕方がない」とする海軍省を中心とした所謂「条約派」と軍縮条約に反対する海軍軍令部を中心とした所謂「艦隊派」との対立が激化していました。ところが、艦隊派が日本海海戦の英雄である東郷平八郎を取り込んだことで、大勢を占めるようになります。そして、伏見宮博恭王が軍令部長に就任が結果的に条約派に止めを刺すことになってしまいます。
皇族である伏見宮の軍令部長就任は、陸軍が同じく皇族である閑院宮載仁親王を参謀総長に据えたことに対して、バランスを取るという意味がありました。慣例では皇族軍人に実質的な権限はなく、閑院宮はお飾りに過ぎなかったのですが、伏見宮は違ったのです。日露戦争で活躍した閑院宮と東郷は「宮様と神様」と呼ばれるほど、海軍で神格化されており、影響力は絶大です。さらに艦隊派の首領である加藤寛治も戦友であったことから、自身も艦隊派に賛同して、その影響力を行使していったのです。
加藤は、伏見宮が軍令部長になると、艦隊派の高橋三吉を軍令部次長に起用し、高橋主導のもとで「海軍軍令部条例」改定を進めます。これは兵力量や参謀人事など、海軍省にある権限を軍令部に移譲する内容でした。
本来、軍令部は海軍省が決めた予算や人事の中で作戦立案を行なうというシステムなのですが、この改定案が通ると、軍令部の権限が大幅に強化され、ますます独走を許すことになってしまいます。当然、大角岑生海相をはじめとする海軍省は反対するわけですが、軍縮条約に不満を持っていた閑院宮は「この改定案を拒否するっていうなら軍令部長を辞任しまーす」と海軍省に圧力をかけたのです。皇族で神格化された閑院宮を辞任に追い込んだとなると、大角海相の立場ばかりでなく、海軍自体に大きな混乱を呼び込むことになってしまいます。こうして、大角海相は高橋の要求を受け入れることになります。
1933年(昭和8年)10月、改定案が施行されると、「海軍軍令部」は「軍令部」に「海軍軍令部長」は「軍令総長」と改められ、軍令部の権限が大幅に強化されました。また、明文化はされていないものの、海相や高級将校の人事に関しては、閑院宮の同意が必要という暗黙のルールが出来上がります。さらに大角海相に圧力をかけ、条約派の要人を次々と予備役に編入させるという、所謂「大角人事」という粛清が断行されていくことになります。
平沼枢密院副議長の陰謀か?
第1次若槻内閣の時、金融恐慌によって鈴木商店が倒産したという話は以前しました。その後、鈴木商店に多額の融資を行なっていた台湾銀行には、担保として帝国人造絹糸(帝人)の22万株が渡ることになります。帝人とは、現在も残っている化学繊維を扱う企業で、元々は鈴木商店の子会社でしたが、人造絹糸(人絹)=レーヨンの需要が高まり、順調に業績を上げると独立し、国内有数の優良企業に成長しました。そのため、元鈴木商店の金子直吉らは、株価の値上がりが見込まれる帝人株を買い戻すため、鳩山一郎や財界人サークルである「番町会」などに斡旋を依頼します。そして、鳩山らによって台湾銀行から11万株を買い戻すことに成功します。その後、帝人株は大きく値を上げたのです。
1934年(昭和9年)1月、「時事新報」はこの一連の流れの中で巨額の賄賂が動いたのではないかという記事を掲載しました。当時、文部大臣だった鳩山一郎は、この収賄疑惑を議会で追及され、辞任に追い込まれてしまいます。さらに、同年3月には時事新報の社長が射殺される事件まで起こります。この事件と贈収賄疑惑との関係は不明ながら、大衆の目には番町会の差し金による暗殺事件に映り、事件はとてもセンセーショナルに扱われるようになったのです。すると、ついに検察が動き出し、番町会の永野護や帝人社長、台湾銀行頭取の他、大蔵官僚も起訴されることになりました。これによって、政府への批判が高まり、同年7月に斎藤実内閣は総辞職に追い込まれてしまいました。
しかし、後に行なわれたこの帝人事件の裁判の結果は、「全員が無罪」でした。この事件は、証拠も不十分なまま、自白を強要する強引な取調によっての起訴という、いわば「倒閣のためのでっち上げ」だとされています。この背後にいたとされるのが司法官僚出身の平沼騏一郎枢密院副議長です。帝人事件が起こる少し前、倉富勇三郎枢密院議長が高齢による体調不良を理由に辞任しました。慣例では、副議長が議長に昇格することになっているのですが、元老西園寺公望は平沼を蛇蝎の如く嫌悪しており、後任の議長に一木喜徳郎を据えたのです。これに怒った平沼が子分の検察を動かし、事件をでっち上げたのではないかと言われています。
憲政の常道は失われたが陰謀は許さない
この頃になると、政党内閣に対する期待は皆無と言ってもいいほどで、次の首相は遂に陸軍や右翼が支持する平沼騏一郎ではないかという憶測が飛び交っていました。しかし、西園寺は平沼の陰謀には屈しませんでした。斎藤実奏薦の際、西園寺は各方面の意見を聞きましたが、今回から首相経験者や枢密院議長、内大臣を召集して重臣会議を開き、次の首相を決めるという方式を正式に採用します。この重臣会議では、宇垣一成や近衛文麿の名前も挙がりましたが、宇垣だと陸軍の反発が強く、近衛はアメリカにいて組閣に時間がかかるということで、再び海軍の穏健派として知られる岡田啓介が奏薦されることになりました。
こうして、2度目も首相の椅子に座るチャンスを逸した平沼は本格的に倒閣に動き出すことになります。ほとんどイチャモンというレベルの嫌がらせを繰り返すのです。
斎藤実に続いて海相から首相となった岡田啓介。
のらりくらりと議会での追及をかわすことから、付いたあだ名は「狸」。
ただ、この頃では珍しい常識人で、昭和天皇からかなり期待されていました。
ちなみに清廉潔白な人で、お金に執着がなく、かなり貧乏。
次回、平沼騏一郎が再び暗躍します。こんな人を相手にしないといけないなんて、岡田首相には同情します。