第63回もう一度まなぶ日本近代史~天皇機関説事件、政党内閣が終わっても衆議院は強い!~

文:なかむら ひろし

 平沼騏一郎枢密院副議長が仕組んだとされる帝人事件によって、斎藤実内閣は総辞職に追い込まれてしまいました。しかし、元老西園寺公望は平沼の陰謀を許さず、平沼を首相に奏薦することはありませんでした。斎藤実に続いて、再び海軍から岡田啓介を奏薦したのです。

脆弱すぎた岡田内閣

 岡田首相は、斎藤内閣と同じく「挙国一致内閣」を目指します。しかし、鈴木喜三郎政友会総裁は政友会からの入閣を拒否しました。斎藤内閣の時から政党内閣への復帰と政友会による単独政権を求めていたからです。結局、岡田内閣には政友会から3人、民政党から2人が入閣することになるのですが、鈴木政友会総裁は入閣した3名を除名処分にするなど、岡田内閣との対決姿勢を崩しませんでした。岡田内閣は、民政党を与党とする少数与党となり、斎藤内閣と比較して脆弱だったのです。
 そんな脆弱な岡田内閣にいきなりケンカを売ったのが陸軍でした。1934年(昭和9年)10月、陸軍軍務局長だった永田鉄山の主導の下、『国防の本義と其強化の提唱』というパンフレット(陸軍パンフレット)を公表します。これは単に軍事面だけではなく、政治・経済・思想など多岐にわたる面から国防の必要性を説いたものでした。この陸軍が政治に介入するような行為は物議を醸し、陸軍パンフレット事件とまで呼ばれます。
 中でもこの陸軍パンフレットの内容を「自由主義を否定する全体主義かつ他国に対して好戦的すぎる軍国主義である」と痛烈に批判したのが美濃部達吉貴族院議員でした。このことが後に美濃部の提唱する『天皇機関説』が槍玉に上げられる遠因となるのです。

国力差を考えない海軍

 岡田内閣が取り組まなければならない課題のひとつが期限満了が迫ったワシントン条約とロンドン条約の処理でした。参加各国は、期限満了の前に新たな海軍軍縮条約を協議することになっており、日本も出席することになります。この会議の争点は、主力艦保有率を従来のままにするか否かという点でした。ところが、艦隊派に占められた海軍は英米と同等でなければならないと強硬姿勢を崩しませんでした。岡田首相も広田弘毅外相も海軍に圧力に屈して、英米と同等の保有率が認められなければ、条約を破棄することが閣議決定されます。そして、日本は1935年(昭和10年)12月にロンドンで開催された軍縮会議を脱退し、ワシントン条約・ロンドン条約を破棄することになります。
 アメリカとの国力差を考えれば、日米で建艦競争を行う方が圧倒的に不利です。条約で保有率を定めていた方が戦力差が広がらないのです。さすがに海軍がお金も資源もないのに戦艦を建造できると思っていたとは思えませんが、ここで大きなミスを犯したのは明らかでした。

幻の日中友好

 1935年(昭和10年)1月、議会で広田外相が「私の在任中に戦争は絶対にない」という演説を行ないました。この演説を評価した蒋介石は、日中友好を謳う声明を発表すると、排日禁止法を可決したのです。広田外相もこれに応える形で、治外法権撤廃の議論を進めるようになったり、公使館を大使館に昇格させたりしました。当時、大使館は大国相手にしか置かないのが普通だったので、蒋介石もこれには大喜びでした。
 ところが、陸軍は大使館昇格に納得していませんでした。小規模とは言っても未だに華北では抗日が続いており、ソ連を警戒する陸軍にとっては張学良系の軍閥が気がかりだったのです。また、日本の支援によって生活レベルが格段に上がった満州国に漢人の入植者が増大したことも悩みの種でした。そんな中、1935年(昭和10年)5月に天津の親日的な新聞社社長2人が殺害される事件が起きました。陸軍は国民党政府に対して、河北省を治めていた張学良系の軍閥を追い出すよう要求し、梅津・何応欽協定を結びます。さらに察哈爾省でも同様に反日勢力を追い出すように要求し、土肥原・奏徳純協定を結びます。国民党政府は、この2つの協定を結ぶ前、広田外相に交渉の斡旋を要求しましたが、広田は「現地の戦闘に関しては出先機関と話をつけてくれ」とこれを拒絶していました。これによって、「協和外交」を訴えていた広田外相に対する国民党政府の不信感は高まるばかりでした。
 また、当時の中華民国は経済的に困窮していました。そこで、イギリスは日本に対して「日中友好のために日英共同で経済支援してあげましょう」、さらに「そこで満洲国を承認してもらえばいいじゃん」と提案してきたのです。しかし、政府は「うちもお金ないんすよ」とこれを拒絶します。その結果、イギリスはアメリカと共同で中華民国に経済支援を行なうようになります。中華民国が英米に擦り寄った瞬間でした。英米の支援を受けた中華民国で排日が激化するようなことがあれば大変なので、日本は余計に華北を安定させる必要に迫られます。そこで華北の軍閥に中華民国と手を切って、日本と仲良くするように要求しました。こうして、華北に傀儡政権を樹立したことを華北分離工作と呼びますが、実際は軍閥に日本の意思を伝えるだけで傀儡にすらなっていませんでした。
 国民党政府は、日本に譲歩を重ねて、なんとか紛争を避けようとしましたが、これに国内の反日勢力が反発します。そして、中華民国側の日中友好最後の砦ともいえる汪兆銘が銃撃される事件が起きます。この時は一命を取り留めましたが、後に泥沼の支那事変へと繋がっていくのです。

なりふり構わない政友会

 1935年(昭和10年)2月、貴族院本会議において菊地武夫貴族議院議員が美濃部達吉に対し、彼の著作『天皇機関説』を取り上げ、国体に反すると攻撃したのです。ところが、菊地は美濃部の答弁に完全論破されてしまいます。
 天皇機関説については以前少し書きましたが、ここで復習しておきましょう。天皇機関説とは、主権は法人としての国家にあり、天皇はその最高機関として権限を行使するというものです。つまり、国家を構成する国民一人一人にも主権は存在し、その国民の代表である議会で決定したことを最高機関である天皇が行使するのです。帝国憲法を最大限民主的に解釈した当時の通説でもありました。
 ところが、美濃部の答弁によって収束されるかと思われた天皇機関説問題でしたが、却って立憲政友会や陸軍、右翼団体の攻撃が激化します。もはや学説的にどうこうという問題ではなく、なりふり構わず倒閣を目論んだのです。そのバックにいたのが平沼騏一郎です。平沼の狙いは、美濃部の師である一木喜徳郎枢密院議長の首でした。また、衆議院でも天皇機関説問題で岡田内閣は攻撃にさらされます。その岡田内閣攻撃の先頭に立ったのが平沼の盟友である鈴木喜三郎政友会総裁です。天皇機関説の否定は、議会政治の否定でもあります。また、内容を知らずに「天皇を機関車に例えるなんてけしからん!」と批判する人間もいるなど、この頃の政友会のレベルはこんなものだったわけです。
 それでも、少数与党である岡田内閣は、この圧力に屈して、国体明徴声明を出し、美濃部の著作を発禁処分とします。しかし、攻撃はまだ鳴り止まず、美濃部は貴族院議員を辞任することになるのですが、「自らの学説が間違っていたことを認めたのではなく、辞任しろとうるさいから辞任します」と言ったことから、岡田内閣の国体明徴声明は生ぬるいと批判され、2度目の声明を発表し、岡田内閣は天皇機関説を完全に否定することになります。

自爆する政友会

 なりふり構わず岡田内閣を攻撃した政友会でしたが、倒閣にまでは至りませんでした。業を煮やした政友会は、岡田内閣の国体明徴声明に対する態度が不十分だと内閣不信任案を提出したのです。これに対して、岡田首相は解散総選挙に打って出ることになりました。しかし、政友会の陰謀は儚く崩れます。1936年(昭和11年)2月20日に総選挙が実施されたのですが、なんと結果は与党の大勝だったのです。政友会は議席を大きく減らし、第一党から滑り落ちただけでなく、総裁の鈴木喜三郎まで落選するという体たらくです。こうして、脆弱だった岡田内閣は息を吹き返し、政局は安定するはずでした。しかし、この選挙のわずか6日後に事件が起こってしまうのです。


美濃部達吉の『天皇機関説』は、長らく学界の通説で、昭和天皇を支持していました。
また、美濃部は公務員試験も作成していたので、これを否定していたら試験にパスできませんでした。
そんな天皇機関説を排撃する動きが起こったのは大事件です。
美濃部の大学の講義のような弁明、所謂「一身上の弁明」は貴族院で拍手喝采を浴び、攻撃を始めた菊地武夫まで納得したぐらいだったのですが・・・
岡田内閣が2度目の国体明徴声明を出した後も美濃部は国賊とみなされ、銃撃される事件も起こっています。

 次回、選挙に大勝し、いよいよ磐石と思われた岡田内閣でしたが・・・

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